人間は常にそのとき考えられる最善の行動を取っている
例えば被災地に募金をするときあなたはどんな理由で募金していますか?
・誰かの力になりたい
・周囲から賞賛されたい
・周りに合わせて同じ行動をした
など人によって答えはいくつかの目的があったりで様々だと思います。
今回は上で上げた例の中でも誰かの力になりたいという種類の動機を中心に人間の行動における本質を深く掘り下げていこうと思います。
まず例で出した「被災地への募金」とはつまり、自らの財産(ここでは単純に考えるために金銭、もしくは金銭的価値に即還元できるものに限定)を削る行為としての側面を持っています。一般的にに考えてその側面はデメリットと考えることができます。
募金以外に自らの財産を削る行為をいくつか思い浮かべると
・買い物 ・遊戯(賭博) ・投資 ・プレゼント
他にも色々あると思いますがこういったものがあると思います。
上記の例であげたプレゼントを除く他の行為は基本的に自らの財産を削った分、自らに何らかのものが返ってきます。
・買い物=出した財産に値する物品、サービス等
・遊戯(賭博)=遊戯体験、場合によっては削った財産以上の財産を手にする機会
・投資=場合によっては削った財産以上の財産を手にする機会
おおまかに言うとこういったものが返ってくると考えられます。
これらのものを得ることが自らの財産を削るデメリットよりメリットに感じて人はお金を使います。自分の欲を満たすためにお金を使うわけですね。
しかしプレゼントや募金は自らに対して物品やサービスや機会などが返ってくるわけではありません。帰ってくるものがあるとすればそれは感謝の言葉や態度です。基本的に自らが得る分かりやすいものは特にないと考えられます。
では何故人はプレゼントや募金をするのかと考えてみると、やはりそれらをすることに財産を削るデメリット以上にメリットを感じているからと言えると思います。単純に考えると買い物や遊戯、投資などにお金を使う理屈と差はないですね。
更に深堀りすると、何故人はプレゼントや募金をすることにメリットを感じるのかという疑問が出てきます。
この疑問は買い物や遊戯、投資の目的の本質を考えていくことで解明できると考えています。お金を出せば物品やサービスや機会を得ることができますが、果たしてお金を出す目的は本当にそのような即物的なものを得るためなのでしょうか?私は物品やサービスや機会を得るということは通過点(手段)に過ぎず、本当の目的は幸福(精神的メリット)を感じるためだと考えています。
物や機会が得られなくても精神的メリットを得ることはできます。
他者が喜ぶことを見て幸せに感じる人は多いと思いますが、これは精神的メリットを得ている最たる例だと考えられます。他人の幸福が自分の幸福というわけですね。
他人の幸福が自分の幸福となるなら、そのために財産を削るデメリットよりもメリットの方が大きくなると感じる場面は多くなると考えられます。
つまり、プレゼントや募金とは財産を削るデメリットよりも他者に幸福にさせることのメリットが大きくなったから行える行為であると考えられるわけです。
プレゼントや募金は一見すると誰かのためにという自己犠牲であるかのように見えますが、実は自らの幸福を追求しているという点で買い物や遊戯、投資などの金銭の使い方と変わらないということが言えます。
ここから一旦金銭の使い方に関する話から逸れます。
上記のことから今度は自己犠牲というものは存在しないということが考えられるようになりました。
どういうことかというと、精神的メリットを考慮することで全ての行動は自らの欲求を満たすための行為に他ならなくなるからです。
人間は物理的に不可能なこと以外は全ての行動を取ることができます。私の場合で考えると今すぐPCのモニターを叩き割るかキーボードを破壊するという選択肢や、素っ裸で叫びながら外出するという選択肢もあるわけです。では私は今そういった選択肢を取るのか聞かれれば答えはノーです。そういった行動をしても精神的なメリットは得られないし、デメリットとしてしか考えられないからです。逆に言えばやるメリットの方が大きくなればやります。
えっ?と思う人もいるかもしれませんが、頭が正常な人間であればみな同じようにメリットを取るということは否定できないと考えられます。犯罪を例に見ても、犯罪を犯すメリットが犯さないデメリットより大きくなった人がいるから発生するわけです(冷静ではない=頭が正常ではない人間は別)。
これらのことから、人間はみな精神的幸福を得るためにある意味好き勝手に行動していることが分かると思います。あなたの嫌いな職場の同僚もたまたま何に幸福を感じるかが違うだけで、根本的な行動の動機はあなた自身と同じなのです。
こう考えると他者との考えの違いや行動に対してイライラしたり怒ったりせずとも、
「まぁ自分も自分の幸福のために行動してるしお互い様か…。」と楽に受け流すことができるのではないかなと考えています。
理屈上は悪意に満ちた人と他者の幸福を願う人とでは根本的には大差ありませんが、私の気持ちとしては、できることなら他者の幸福を自分の幸福と感じられそのために行動できる人間の方が好きです。善悪の観点ではなくただの個人的な嗜好です。
私がいかに社会不適合気質であるか紹介します
自分について伝えるべき最初の情報は何かと考えていたのですが漸くまとまりました。ずばり「私は様々な視点から見て社会不適合者である」です。
私の経歴を説明すると
・幼少期
おもちゃを改造したり色や属性毎に並び替える、昆虫を採集して観察するなど自分の世界で一人で遊ぶことが好きな内向的な側面が強い子供だった。
寝付きが悪く朝もなかなか起きられず幼稚園の遅刻も多かった。
・小学生~中学校
転勤が多く、空気も読めなかったため軽くいじめられることもあったが、幸いなことにあまり気にしないマイペースな性格であったためか時間が経てば馴染むことができた。
幼少期から引き続き遅刻の常習犯であったが、それ以外では学校生活でそれほど大きな問題行動はなし。
勉強は好きではなかったが中学生2年生ぐらいまでは何も勉強しなくてもそこそこの点数が取れていた。しかし徐々に成績は下落していった。
部活動は卓球部を数か月経験したが強制的に練習や試合に出させられること、休日や放課後の自由な時間が奪われること、朝が早いこと、先輩や顧問が理不尽な言動や行動を取ることが当たり前であるかのような空気が苦痛ですぐにやめた。
そもそも運動が嫌いだった。
・高校生
成績上位層に滑り止めとして使われる私立高校の進学クラスに単願で受験し、なんとかそこそこのレベルの高校に進学はできたが成績が悪すぎて留年の危機を幾度も経験。
上記の通り成績はボロボロで学年で最下層付近の順位を取っていたが、勉強しなくても点数が取れる現代文の成績だけは非常に良かった。
このころから遅刻の回数は非常に多くなり内申点が低く、大学への指定校推薦は不可能であった。
慢性的な睡眠不足のため授業のほとんどは机に突っ伏していた。
カードゲームにドはまりし、大会の優勝時に貰える金券を小遣い代わりにしていた。
・大学生
都内の私立文系中堅大学に入学し一人暮らしを経験。昼夜逆転に拍車がかかり、3時限目の講義ですら遅刻することもあった。
コンビニエンスストアで週3回ほどアルバイトをしていた。卒業間際までやめなかったが一日5時間が限界でそれ以上働くと落ち着かなくなってしまうことを知った。
ゼミ、サークルが同じで入学時から仲の良かった友人を怒らせてしまい約2年間無視され続ける。理由は私が悪いようだったため謝罪を何度もしたが、その友人が許してくれず自分だけが歩み寄ろうとして空回りする生活が続いた。人の気持ちを理解することの難しさを痛感。
大学時代に彼女も何人かできたが、ここでも彼女の価値観が自分とは違い理解に努めたが、最終的に相手から自分の価値観や理屈っぽい考え方を理解できないし一緒にはいられないと拒絶され破局する恋愛を繰り返す。
就活シーズンになると、毎日8時間も半ば強制的に働かされることに絶望しながら自己分析をしていたが、自分を理解すればするほど社会生活に向いていない、向いている職種がほぼ無いもしくは今から目指すのであれば相当な努力が必要になることを知り、ヤケクソ気味に適当に営業職の内定をもらい早々に就活をやめた。
・社会人(仮)
入社した会社の研修中に朝早く起きて夜眠ることが病的なレベルでできないことを自覚、普段の睡眠リズムが崩れ一睡もできない日が続いたため病院に行くとそこで初めて「睡眠相後退症候群」という概日リズム睡眠障害であることが発覚。
病気発覚後内定が取り消され無職となり実家に帰還。しばらく何もしていなかったし金も無かったが、良い機会だったため自分の内面と毎日のように対話を続ける。あまり人と関わらず金も無く社会に貢献するようなことは何一つ行っていない状態だったが、自分にとってこの状態は非常に心地よいと感じることを知る。
カラオケ店でアルバイトをしながら興味のあることにいくつか手を出していたが、どれも中途半端に終わる。唯一続けているのが上記の自己同一性の探求。
睡眠障害の治療と小遣い稼ぎと運動の目的を兼ねてウーバーイーツの配達員を始める。今まで接客業や倉庫でのアルバイトを経験してきたがどれも時間的な制約や他者との交流、監視があり常に不快感やソワソワ感があった。ウーバーイーツの配達員は一人で好きな時間にできる仕事であり非常に満足度が高く感じられた。
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自分で書いていて改めて思うなかなかのクズっぷりw
さて、これらのことから分かる私の社会不適合ポイントは
体内時計が社会と違う、努力を嫌う、理屈っぽい、極度の内向性、飽き性、コミュ障
と考えられます。
これらは言い換えると
普通の人が活動できない時間に活動可能、効率重視、論理的思考ができる、マイペース、好奇心旺盛、他社との交流以外の部分にリソースを割きやすい
とも言えます。(無理があると思うものもありましたがw)
言い換えるだけでメリットも見えてくる気がするので発想の転換は面白いなぁと実感しますね~。
このように社会生活において一見すると弱点だらけな私ですが自己肯定感は高いです。これは私が理屈を重視していることや他者承認欲求や貢献欲求が薄いため、自分の世界で論理を固めて哲学を作り上げ、引きこもることが苦じゃないからだと思っています。こういった能力は地に足付いた現実的な生き方には向いていませんが、自分の世界を生きる上では非常に才能に恵まれているし自分の性格とも合っているなと感じていて気に入っています。
そんな社会不適合気質であると自認している私の思考の癖や性格的特徴や病気について、またはそれらと世間とのズレや問題などについて考察した記事を中心に書いていこうと考えていますのでよろしくお願いいたします。